伊達政宗の国づくりにかけた意思と
壮大な夢のひとつが瑞巌寺です。

藤原秀衡

1122年?~1187年。平泉を中心に奥州(東北)一帯を治めた奥州藤原氏の三代目当主。鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられ、白河以北を完全に支配。奥州の最盛期を築き、奥州を独立国家状態に成長させた。

北条時頼

1227年〜1263年。鎌倉幕府第五代執権。執権とは「将軍を補佐し、政務を統べる重要な役職」。

洛陽

西周時代に都として建設され洛邑 (らくゆう) とよばれた。漢代に改称、北魏・晋・隋・後梁・後唐などの首都。唐代には長安に対して東都とよばれ、経済・文化の中心として繁栄した。

臥龍梅

伊達政宗は国づくりに当たって、藤原秀衡の築いた平泉の一大栄華の再現と執権北条時頼が熱意を注いだ松島円福寺の復興を「国泰く民安ずること」と考え、中国の周の王城洛陽の再現を意思しました。政宗は自らの意図で、自身の浄土往生の祈念の場「菩提寺」を瑞巌寺としました。
 政宗は「工事の時に棟や床に上がるときは、草鞋を履き替えよ。土足で上がってはならない」「釘や鎹(かすがい)といえども、土に落としたものを使用してはならない」と厳しく命じました。瑞巌寺造営にかける政宗の意気込みが感じられます。建設作業に目を配っていたせいか、遺されたものの少なさ、記録が少ないことが、かえって施主の意思を強く語りかけてくる気がします。その意味では、これほど権力者の意思が濃密な建築もめずらしいといえます。
 政宗が瑞巌寺造営に、何よりも熱い情熱を注いだことは、自ら行った瑞巌寺の縄張りが旧暦8月15日、中秋の名月であったこと、朝鮮から持ち帰った臥龍梅を植えたこと、松を手植えしたことなどにも現れています。

伊達政宗は中世からの霊場松島に
瑞巌寺を建てました。

円福寺

開創は鎌倉幕府執権五代北条時頼、開山は高徳として異彩を放った法身性西(ほっしんしょうさい)。開山の年代は1249〜63(建長から弘長3)の間とされるが、確定していない。

見仏上人

雄島は松島湾に浮かぶ小島。芭蕉も雄島に見仏上人の跡を訪ねている。見仏上人は1104年に伯耆の国から来松し、雄島の妙覚庵に入り、以来、一歩も島を出ることなく、12年間ひたすら法華経を読誦した。超能力者でもあったという。

瑞巌寺が円福寺の遺構の上に建っていることが明らかになりました。平安時代の延福寺が松島のどこに建っていたのか特定できていませんが、時の権力者たちがここに大伽藍を建てたのは、松島が心の拠り所となる不思議な力の宿る地であったからに違いありません。果たして、政宗が円福寺の上に瑞巌寺を建てたのは、為政者としての力を誇示するためだけだったのか、または、この地で培われてきた信仰の力をわがものとするためだったのでしょうか。
 月の美しい松島、歌枕の地松島に文人政宗のこころが引き寄せられなかったとは、言いがたいかも知れません。
 見仏上人の雄島を中心とした中世からの霊場松島は、地形に神聖な力の宿る魅力が強く、多くの人を惹きつけてきました。それこそが松島の磁力といえます。

渡月橋と雄島松島全景

瑞巌寺本堂は完全なる新築でした。

本堂全景

今回の修理事業では発掘調査も同時に行われました。その結果、瑞巌寺の建築に当たってそれまでの円福寺の建物を利用した形跡は見られず、1609年の創建時にまったく新しくされたものだと分かりました。現在の瑞巌寺に政宗の時代以前に建てられたものはなく、過去の建物などから材料を転用された痕跡もなく、完全なる新築でした。

瑞巌寺本堂は聚楽第にそっくりの
仙台城大広間を彷彿させる貴重なものです。

聚楽第(じゅらくだい)

聚楽第は豊臣秀吉の政庁兼邸宅として現在の京都市上京区に1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成したが、竣工後8年で取り壊された。

仙台城大広間

仙台城大広間は、桃山美術の粋を集めた千畳敷とも称された書院造り。随所に、漆塗り、飾金具,彫刻が施されていた。

仙台城は天守閣のない城でした。完成したのは1610年(慶長15)のことで、工期はまさに瑞巌寺造営の最中でした。桃山文化を象徴する絢爛豪華な建物群で、なかでも大広間は430畳、内部は金碧障壁画に飾られていました。藩主である政宗の座す上段の間、その脇に一段高い上々段の間があり、間取りは秀吉が京都に築いた聚楽第とよく似ています。
 明治になって仙台城は取り壊されてしまいましたが、瑞巌寺本堂はこの仙台城大広間と同じ構造を持ち、まさに仙台城を彷彿とさせ、政宗の瑞巌寺にかけた特別な思いを感じさせるものです。

上段の間上々段の間

木材は紀州熊野から
海上輸送で来ていました。

建物内部

瑞巌寺造営の木材は、紀州熊野から伐り出されたと伝えられています。木材の年輪研究によって創建時の木材は、紀州熊野などから運ばれてきたことが分かりました。また木曽のヒノキが含まれることも分かりました。過去の修復で使用された木材は創建時に準じていないことが分かりましたが、正確には合わせられなかったというべきで、江戸期の修復では、輸送手段がなかったことから地元に多いヒバ材などが用いられていました。そう考えると、創建時にはるか関西から海上輸送したことがいかに大事業であったかがうかがえるのと同時に政宗の強い意気込みが示されているといえます。

職人は一流を、技術は最先端を
関西から招聘しました。

欄間鳳凰左欄間鳳凰右

政宗は、仙台の大崎八幡宮や瑞巌寺の造営にあたり、多くの職人を関西方面から招いています。いうまでもなく社寺建築は京都、奈良などで発展し、技が磨かれていました。最高の材料と最新の技術を彼の地に求め、大工棟梁は京都の名工梅村彦左衛門で、「天下無双の匠人」と評されました。紀州の名匠刑部左衛門国次一門は、彫刻装飾で力を振るったといいます。

瑞巌寺創建時の瓦職人は
関西から招いています。

本堂の屋根

瑞巌寺本堂の大空に駆け上がるような屋根構えは見る者を圧倒し、鈍い銀色に輝く甍の波が美しい。かつて多賀城創建の瓦は、現在の大崎市周辺の窯から供給されたといいますが、その後廃れ、室町後期から安土桃山初期までは瓦を焼く技術が東北では失われてしまいました。そこで政宗は瓦を焼く職人と技術も関西から招き、瓦を焼く窯業を復興させたとされます。屋根の葺き替えは少なくとも慶安、天保、明治、大正と何度も行われてきました。昭和では27年、33年、48年に行われていますが、もちろん創建期の古い瓦も使われています。

瑞巌寺の桃山美術の白眉は装飾です。

障壁画

本堂唐戸

本堂では広縁の上部の装飾、室中孔雀の間では二重裾折上格子天井、上段の間、上々段の間の襖絵や絵画がこれにあたります。また御成玄関では彫刻が最大のみどころで、木鼠や虎の彫刻は、毛並み模様が墨で細かく描かれています。
 寺社建築の彫刻や装飾は珍しくありませんが、瑞巌寺の装飾の精彩さは他に類を見ないもので、400年前に東北に初めてもたらされた桃山建築がここに遺されていることはとても貴重といえます。わが国の仏教建築の伝播を知る上で欠かせない遺構です。

本堂障壁画は
京の一流の絵師に描かせました。

長谷川等伯(はせがわとうはく)

1539年 - 1610年。安土桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師。狩野永徳、海北友松、雲谷等顔らと並び桃山時代を代表する画人。

長谷川等胤(はせがわとういん)

長谷川等伯の高弟の一人。伊達政宗に重用される。瑞巌寺文王の間、上段の間に長谷川派の装飾性豊かな画面をくり広げた。

瑞巌寺本堂内部の金碧障壁画は、文王の間、上段の間、上々段の間の障壁画は長谷川等伯一門の長谷川等胤によって描かれました。仏間とその他の部屋は狩野光信一門の絵師佐久間修理(狩野左京)と弟子たち、みちのくにゆかりの深い雪村派吉備幸益らがそれぞれに担当しました。
 彫刻の框の部分に、障壁画に描かれているのと同じと思われる絵が残されていました。この絵は下書きのようにも見えるし、落書きのようにも見えます。こうした発見は、当時の現場の様子を垣間見るようで興味深いものです。工事に関わった人々は総勢どれくらいか。それを知る記録はありませんが、彫刻の裏の墨書からは山形と白河出身の人間がいたことが分かっています。

伝説の名工 左甚五郎が
瑞巌寺彫刻を彫っています。

左甚五郎

左甚五郎とは特定の人物ではなく各地で腕をふるった江戸時代初期の伝説的な彫刻職人たちの代名詞。左甚五郎作の彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。

御成玄関にある「葡萄に木鼠」の彫刻は左甚五郎作と伝えられています。日光東照宮の彫刻作でも知られますが、実在の人物かは疑わしく、伝説の名工とされています。日光東照宮は瑞巌寺より後に建てられましたので、「葡萄に木鼠」は「眠り猫」より以前の彼の作品です。瑞巌寺建設に携わった刑部左衛門国次が左甚五郎なのではないか、ともいわれています。

瑞巌寺の彫刻は
はじめ彩色されていませんでした。

瑞巌寺は、大崎八幡宮と同様に桃山様式の建築です。最大の特徴は装飾の豊かさにあります。後の江戸期の建物はにぎやかな印象がありますが、桃山建築は上品であり飾り立てただけではない、落ち着きのある華やかさがあります。
 装飾の多くは彫刻と装飾金具で、本堂のあちこちに見られます。創建当初は白木が基調の建物だったと考えられ、完成から10年くらいの間、本堂の彫刻は塗装されていませんでした。今回の修理で彩色は、1620年(元和6)から1622年(元和8)にかけて行われたことが分かりました。彫刻の裏から彩色に携わった者によると思われる墨書が見つかりました。また本堂の障壁画と襖絵も同じ時に作製されたので、当初、襖は無地だったのかもしれません。落慶法要から10年後の改修はいわゆる追加工事とするべきか、あるいは一部工事は継続的に行われていたのか詳にしませんが、1620年といえば政宗はまだ存命中の時代です。こうした完成の経緯には政宗の意志が反映されているのかもしれません。
 これは瑞巌寺の大きな見所といえます。