いま瑞巌寺が建っている場所に、
瑞巌寺の前身—円福寺という寺がありました。
円福寺は規模も格式も東北随一、全国でも屈指の寺院でした。

雨落ち溝

雨水を受ける溝。排水溝の役割もあった。

四半敷

石の敷方。建物の縁に対して目地が45度になるように斜めに切石や瓦を敷く。

雨落ち溝

本堂の解体修理のために本堂下の遺構調査が行われました。その結果、現在の瑞巌寺本堂の位置に同じ規模の建物があったことを示す礎石が見つかりました。これが円福寺のものでした。さらに屋根から落ちる雨水を受ける「雨落ち溝」の跡が見つかりました。同時に同じ場所から大量の瓦が出土しましたが、焼けた跡が見つかり、瑞巌寺以前の建物(円福寺)は焼失したと考えられています。その後に、四半敷(しはんじき)のある円福寺の僧堂を建てたのではないかと考えられます。

蓮華唐草の文様瓦

瓦が出土したことで円福寺は瓦葺だったことが判明しました。瓦には蓮華唐草の紋様が施されていましたが、これは奈良の法隆寺が、鎌倉時代に修復された時に用いた瓦と同じ系譜のものと分かりました。これも四半敷同様、寺格の高さを物語るもので、円福寺は規模も格式も東北随一、全国でも屈指の寺院だったのです。

円福寺の寺格を示す
石の敷き方(四半敷)が発見されました

本堂床下の遺構が円福寺のものと分かり、円福寺は瑞巌寺と同じ場所にあったことが、今回の調査で証明されました。特に本堂の南側で発見された、一辺が45cmの正方形の石が整然と敷き詰められる四半敷の様式は、禅宗寺院に特有で寺格の高さを物語るものとされています。
 鎌倉幕府は寺院の格式を五山制で表し、京都と鎌倉、それぞれ5つの寺を指定しました。そしてその下に諸国の大寺を十刹及び諸山と決めましたが、円福寺は最初に諸山になり、後には関東十刹に昇進しました。いうまでもなく東北ではここだけで、四半敷の遺構が発見されたのも東北で初めてです。

四半敷

14世紀の「遊行(一遍)上人絵伝」は
瑞巌寺の前身—円福寺の伽藍を正しく描写していました。

遊行上人(ゆぎょうしょうにん)縁起絵

重要文化財。14世紀はじめに描かれた一遍上人の遊行の生涯を描いた絵巻。第二巻に塩竃、松島を参詣。塩竃、松島の雄大なパノラマのなかに当時の円福寺が描かれている。
遊行上人は、時宗の開祖である鎌倉中期の僧侶一遍の尊称。

瑞巌寺での発掘調査は、昭和48年に宝物館が建てられる際にも行われました。その際に円福寺の回廊基壇が見つかり、円福寺のおおよその伽藍配置が分かりました。今回判明した僧堂、法堂(はっとう)、通路跡の位置はその推定を補完するものでした。
 14世紀に描かれた「遊行上人縁起絵」には円福寺の様子が描かれています。それによると、仏殿を中心に、回廊によりいくつもの建物が結ばれていたことがわかります。こうした絵図は想像図であることが多いのですが、発掘調査により写実的なことが分かりました。周囲の風景も現在の松島に共通するものです。円福寺は瑞巌寺にも引けをとらない大伽藍でした。

瑞巌寺本堂の壁に「筋違」が採用されていました。
これは建築史上の大発見でした。

筋違(すじかい)

軸組の変形を防ぐために対角線に入れる部材。

筋違

瑞巌寺は「慶長期に建てられた大規模な方丈建築の代表例」です。解体中に構造上の大きな発見がありました。主要な壁すべてに筋違が見つかったことです。これまで日本の建築で筋違が普及するのは安政以降で、外国からもたらされた技術と考えられてきました。
 瑞巌寺に筋違が日本で初めて採り入れられたのではなく、室町時代に建てられた建物からも見つかっています。しかし、それは一部に採用されているだけで、瑞巌寺のように部屋境の壁すべてに採用されている例は発見されていません。筋違は明らかに補強や耐震を目的に採用されたもので、その規則正しい構造は美しくさえあります。この筋違の発見から、瑞巌寺が建築史上でも貴重な遺構であることが分かります。

なぜ筋違が一般的でない時代に
瑞巌寺に採用されたのでしょうか。

それは建築に関わった人の中に、筋違を施せば建物が強くなると認識していた者がいたと考えるのが最も合理的です。瑞巌寺の造営に携わった中心人物は、棟札に中村日向守吉次の名が見え(治家記録には梅村彦左衛門家次が棟梁とあります)、同時期に大崎八幡宮の造営も手がけたのが中村日向守家次の長子であるといわれ、大崎八幡宮で筋違は見つかっていません。
 また、瑞巌寺の庫裡でも使われていませんし、これ以降の時代の建物でも見つかっていません。つまり現時点では筋違の発展に歴史的流れを見出すことはできず、瑞巌寺の造営時に突如現れたとしか考えられません。
 今回、筋違が創建当時のものと分かったのは、使われていたのが和釘(明治の修理では丸釘が使われた)であること、創建当初より筋違が入れられていないと納まらない場所があることなどからです。

鎌倉、室町時代の板碑、五輪塔が
瑞巌寺本堂床下から出土しました。

円福寺の寺格を示す石の敷き方(四半敷)が発見された

瑞巌寺本堂の墨絵の間あたりの床下からは、長方形の石を組んだ遺構が見つかりました。幅約2mの石畳のような遺構は、敷地の奥まった場所に置いた開山堂や方丈へ通じる通路の跡ではないかと考えられます。瑞巌寺の基礎層からは鎌倉、室町期の板碑や輪塔の一部も発見されています。
 円福寺の創建は1259年(正元元)で、瑞巌寺に変わるまで350年ほどの歴史があります。時代も鎌倉から室町、そして戦国へと移り変わり、円福寺の規模も求心力も衰えました。時代とともに信仰のかたちも変わり、境内に墓があったことも考えられ、板碑や五輪塔も役目を終え、ただの石とされていた可能性もあります。

瑞巌寺の建設に円福寺の礎石が
再利用されたと思われます。

円福寺の礎石

瑞巌寺本堂の孔雀の間の下から、直径1mの火成岩(安山岩)が見つかりました。同じ大きさの穴が等間隔であり、それらにも礎石があったと考えられ、20坪以上の大きな円福寺の法堂と考えられます。
 出土した礎石と同じ安山岩は、瑞巌寺の遺構からも確認されました。しかも円福寺の遺構では石を除いた跡があり、瑞巌寺の建設では、円福寺の礎石を再利用したのではないかと推測されます。建物では円福寺の材料を転用した痕跡はありませんが、礎石は使用された可能性があります。なぜなら石質が松島周辺にない火成岩だからです。

百年先の未来のために
貴重な遺構を壊さず
新たな耐震補強を行っています。

耐震補強

本堂の筋違は構造計算によって、現代の基準では大地震に耐えられないことが分かりました。現状保存の原則に沿って考えられたのは、瑞巌寺オリジナルでポリカーボネートを壁内に仕込み、耐力を強化する方法です。ポリカーボネートが文化財保存に使用されるのは初めてですが、半永久的な素材です。100年先に想定される大修理の時代には、また違う工法や素材が生まれていることでしょう。今回の工事では、400年前の筋違の知恵を、ポリカーボネートで受け継ぐことができました。

瑞巌寺を建築した時の
足場跡が発見されました。

足場跡

今回の調査では円福寺の遺構とは別に、本堂の礎石のそばに瑞巌寺本堂建設時に足場を立てた穴が発見されました。基礎に並行する穴の大きさは、設置された足場の大きさを明らかにし、本堂の大きさを再認識させました。
※白いマーカー部分が足場跡です。

未来の研究のために瑞巌寺の修理では、
中世の遺構を残す基礎工事を行っています。

本堂の礎石には高低差が生じていました。境内の両側は岩盤層ですが、特に本堂直下は軟弱な堆積層であることが分かりました。直下の遺跡発掘調査と並行し、円福寺の遺構を未来の研究のために保存しなければなりません。例えるなら、茶碗の高台がすっぽりはまるように茶托の真ん中に穴を開け、礎石を支えるように周囲にコンクリートを流しました。一度に敷地全部を覆うのではなく、礎石の配列を考えて一枚分のコンクリート盤を9回にわけて造っていくことで礎石自体が不安定な状態にはならず、いつ地震が来ても耐えられるようにしています。

不思議な力で東日本大震災から守られた
解体修理。

今回の解体修理は2009年9月から始まりました。2016年に本堂が公開されますが、事業は2017年まで続きます。計画段階を含め10年以上に及ぶ大事業で、2018年に全ての修理を終え、落慶法要が予定されています。
 この解体修理期間中、本堂が骨組みだけになった時に東日本大震災に遭遇しました。津波で沿岸部が甚大な被害を受ける中、松島は周辺に比較して大きな被害を受けずに済みました。ことに本堂は屋根瓦を下ろし、身軽になっていたので大きな被害を受けませんでした。震災をきっかけに地質から過去の津波の規模が調べられましたが、そこからも松島は、過去も大きな被害を受けずに来たことが分かりました。
 科学的には沖に浮かぶ島々が波の力を弱めたということですが、科学が発達しない時代には、人々は不思議な力で守られると信じ、畏れたのではないでしょうか。そして先祖を供養するにふさわしい場所と考えたことと思います。今回の解体修理も仏様が守ってくれたことに感謝しています。